城太郎助長、急死の理由(覚一本)

第6問 木曾義仲の挙兵を聞いた時、平清盛は、越後国には城太郎助長がいるから大丈夫といったが、助長は翌年急死した。その死因は?
①川で溺れた ②物の怪におそわれた ③食中毒

正解 ②物の怪におそわれた

木曾義仲の挙兵は治承四年(1180)9月。同12月に平家の攻撃で奈良が炎上します(巻四・奈良炎上)。

平清盛は、治承五年(1181)2月1日、義仲追討のために城太郎助長を越後守に任命、ところがその後も、九州、四国で源氏に味方する者が多くなったとの報せが次々に届きます(巻六・飛脚到来)。情勢が緊迫する中、同閏2月4日、清盛がひどい高熱で「あつち(じに)」しました(巻六・入道死去)。

そんな中、越後国の住人、城太郎助長は、越後守に任命してくださった朝廷のご恩をありがたく思い、木曾義仲追討のために、全部で三万余騎で、同じく治承五年六月十五日に館を出て、あくる十六日の朝六時ごろには出立しようといたところ、夜中ごろに突然大風が吹き、雨が激しく降り、雷が激しく鳴って、空が晴れたあと、雲の上で大きなしわがれ声が響き、「南閻浮提なんえんぶだい金銅こんどう十六丈の遮那仏しゃなぶつを、焼きほろぼした平家の味方をする者がここにいるぞ。召しとれ」と三回叫んで通っていった。城太郎をはじめとして、これを聞いた者はみな身の毛がよだった。郎等たちは「これほどおそろしい天のお告げがございますので、ただ理をまげてここにお留まりください」と申しあげたが、「弓矢とる者がそのようなことに左右されてはならない」と言って、あくる十六日の朝六時ごろに、城郭を出て、わづかに1㎞ほど進んだところ、黒雲が一かたまり湧き立って、助長を覆ったように見えた。とつぜん身体がすくんで意識がなくなり落馬してしまった。かかえて輿に乗せられて館に帰り、寝かされてから六時間ほどで、とうとう死んでしまった。飛脚を使って、このことを都に申しあげたところ、平家の人々は大さわぎをした。(巻六・嗄声)

原文はこちら

これが、平清盛が木曾義仲が挙兵したことを聞いた時の様子です。

木曽という所は、信濃にとっても南の端、美濃国との境なので、都にひどく近い。平家の人々は義仲挙兵のうわさを聞いて、「東国がそむくだけでも大変なのに、北国までもそむくとは、これはどういうことなのか」と騒いだ。入道相国は、「その義仲という者のことは、気にしなくてよい。思うに、信濃一国の武士たちが従っているといっても、越後国には余五よご将軍の末裔、城太郎助長、同四郎助茂がいる。これらは兄弟ともに大勢の武士を配下にしている者たちだ。命令を下したら、簡単に討ちとってしまうだろう」とおっしゃったが、いったいどうなるのだろうと内々にささやく者は多かった。(巻六・飛脚到来) 原文はこちら

かんた

急死した助長の弟、四郎助茂が「長茂(ながもち)」と改名して、木曾義仲追討のため、信濃国に向かい、横田河原に陣をとったのが同じ年の9月のことです。合戦の様子はこちら

PAGE TOP