覚明の名前

第7問 倶梨迦羅合戦の直前、木曽義仲が埴生の八幡宮に奉納した「願書」を代作した覚明。なんどか名前を変えているけど、覚明の名前ではないのはどれ?
① 最乗房信救  ② 六条大夫宗信  ③ 蔵人道広

正解 ②六条大夫宗信  以仁王の乳母子。武士たちは恐ろしいし、馬に乗るのは苦手。以仁王の亡骸が目の前を運ばれて行くのを、池に隠れてただ見送ったので、あとで批難されました。

(かく)(めい)は、巻七 願書で、つぎのように紹介されています。

この覚明はもとは儒家の者である。蔵人道広といって、勧学院にいたが、出家して最乗房信救と名のった。いつも南都に通ったそうだ。一年前、高倉宮が園城寺にお入りになった時、園城寺が書状を比叡山延暦寺、奈良の興福寺へ送った時に、南都の大衆はその返書をこの信救に書かせた。「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥」と書いたので、清盛はとても怒って、「なんだと。その信救法師めが、わしを『平氏のぬかかす、武家のちりあくた』と書くとは、どういうことだ。その法師めを捕まえて死罪にしろ」とおっしゃるので、南都から逃げて北国へ下り、木曾義仲殿の書記(手書)になって、大夫房覚明と名のった。

この覚明はもと儒家の者なり。蔵人道広とて、勧学院にありけるが、出家して最乗房信救とぞ名のりける。常は 南都へも通ひけり。一年(ひととせ)高倉宮の園城寺にいらせ給ひし時、牒状を山、奈良へつかはしたりけるに、南都の大衆返牒をば此信救にぞ書かせたりける。「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥」と書いたりしを、太政 入道大きにいかって、「何条、其信救法師めが、浄海を平氏のぬかかす、武家のちりあくたと書くべき様はいかに。其法師めからめとって死罪におこなへ」と宣ふ間、南都をば逃げて北国へ落ちくだり、木曾殿の手書して、大夫房覚明とぞ名のりける。

埴生護国八幡宮
護国八幡宮に展示されている、義仲の「願書」の模写(江戸時代)
にゃんこ先生

以仁王が挙兵したとき、園城寺(三井寺)は、延暦寺と興福寺にそれぞれ助勢を依頼する「牒」(書状)を送りました。興福寺の返書には、一緒に平氏のカス!武家のゴミ!の清盛と戦いましょう とあります(巻四 南都牒状)。巻四には書いた人の名前はありませんが、巻七願書で、覚明が書いたことがわかりました。

かんた

勧学院は、藤原氏の子弟を教育するために、藤原氏が作った学校です。公務員養成所みたいなもの?元服前の少年も通っていたらしく「勧学院の雀はもうぎゅうを囀る」ということわざがあります。蒙求は初級者向けの漢文の教科書でした。ふだん聞いていることは自然に覚えるということらしい。覚明が何歳の時から勧学院にいたのかはわかりませんが、文章を書く修行もそこでしたのかな。

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