原文で読んでみよう~清水冠者

寿永二年三月上旬に、兵衛佐と木曾冠者義仲不快の事ありけり。兵衛佐木曾追討の為に、其勢十万余騎で信濃国へ発向す。木曾は依田の城にありけるが、これを聞いて依田の城を出でて、信濃と越後の境、熊坂山に陣をとる。兵衛佐は同じき国善光寺に着き給ふ。木曾乳母子の今井四郎兼平を使者で、兵衛佐の許へつかはす。

寿永二年(1183)三月上旬、源頼朝と木曾義仲の仲が険悪になった。頼朝は義仲を追討するために、その軍勢十万騎あまりで信濃国に向かった。義仲は依田城にいたが、これを聞いて依田城を出て、信濃国と越後国の境、熊坂山に陣をとる。頼朝は善光寺まで出兵する。義仲は信濃国と越後国の境、熊坂山に陣をとり、今井四郎兼平を使者として頼朝のもとにいかせた。

「いかなる子細のあれば、義仲うたむとはのたまふなるぞ。御辺は東八ヶ国をうちしたがへて、東海道より攻めのぼり平家を追ひおとさむとし給ふなり。義仲も東山北陸両道をしたがへて、今一日もさきに平家を攻めおとさむとする事でこそあれ。何のゆゑに御辺と義仲と仲をたがうて、平家に笑はれんとは思ふべき。

どんな理由があって、義仲を討とうとおっしゃるのですか。頼朝殿、あなたは東八ヶ国を従えて、東海道から都に攻め上り、平家を追い落とそうとなさっています。義仲も東山とうせん北陸ほくろく両道を従えて、一日でも早く平家を攻め落とそうとしているのです。なぜあなたとこの義仲が仲違いして、平家に笑われたいと思うでしょうか。

但し十郎蔵人殿こそ、御辺を恨むる事ありとて、義仲が許へおはしたるを、義仲さへすげなうもてなし申さむ事、いかんぞや候へば、うちつれ申したれ。まったく義仲においては、御辺に意趣思ひ奉らず」といひつかはす。

ただし十郎蔵人行家殿があなたに不満があるといって、義仲のもとにいらっしゃったので、義仲まで冷淡な態度をとるのもいかがかと思うので、行動を共にしています。全くもって、義仲には、頼朝殿、あなたに恨みを含むところはありません。

兵衛佐の返事には、「今こそさやうにはのたまへども、たしかに頼朝討つべきよし、謀叛のくはたてありと申す者あり。それにはよるべからず」とて、土肥、梶原をさきとして、既に討手をさしむけらるる由聞えしかば、

頼朝の返事は、「今はそのようにおっしゃっるが、確実に私、頼朝を討つに違いないと、謀叛の企てがあると申す者がいる。義仲殿の言い分は信用できない」といって、土肥、梶原を先陣として、今にも討手を差し向けようとしていると聞こえてきたので、

木曾、真実意趣なき由をあらはさむがために、嫡子清水冠者義重とて、生年十一歳になる小冠者に、海野、望月、諏方、藤沢なンどいふ聞ゆる兵どもをつけて、兵衛佐の許へつかはす。兵衛佐、「この上はまことに意趣なかりけり。頼朝いまだ成人の子をもたず。よしよしさらば子にし申さむ」とて、清水冠者を相具して、鎌倉へこそ帰られけれ。

義仲は、本当に恨みをもっていないことをはっきりさせるために、嫡子の清水冠者義重といって、十一歳になる息子に、海野、望月、諏方、藤沢など名の知られた兵を付けて、頼朝のもとに行かせた。頼朝は、「ここまでなさるということは、ほんとうに恨みはなかったのだな。私、頼朝にはまだ成人した子供がいない。よしよし、では私の子にしよう」といって、清水冠者義重を連れて、鎌倉にお帰りになった。

(巻七・清水冠者)

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