宮中の重衡さま03 囚われの身に

平重衡は 中宮亮 〈中宮に関する事務をおこなう役所の次官〉 だったので、いつも中宮徳子 (建礼門院) の局に出入りしていました。 中宮にお仕えする女房、建礼門院右京大夫の家集 の詞書にも登場します。

ねこさわせんせい

寿永三年(1184)2月 一の谷の合戦で、平家は急襲してきた義経軍に大敗。通盛、忠度、経正、敦盛、知章ら一族の主だった人がおおぜい討ち死にする中、重衡は生け捕りになり(巻九・重衡生捕)京の市中で引き回されます。

建礼門院右京大夫は、重衡の身の上に同情する旧知の人たちの言葉を家集の詞書に残しています。木曾義仲が京に入ってくると聞いて、平家一門が都落ちしたのが寿永二年(1183)7月。約半年後に囚われの身となって都に戻ることになるとは、だれも予想できなかったはずです。

●最初に現代語訳、次に原文をあげます。

重衡の三位中将が、おつらい目にあって都に戻ってくるという噂が流れたころ、むかし親しくしていだいていた公卿のなかでも特に、朝夕慣れ親しんでいて、いつもおもしろいことを言い、またちょっとした依頼でも人のために便宜を図っておられたことなど、こんなにすばらしい人はめったにいないのに、なんの報いでこのような目にと思うと、つらい。姿を見に行った人が、お顔は変わっていなくて、とても見ていられなかったなどというのが、もうつらくて悲しくて言葉になりません。

あさゆふに見慣れすぐししそのむかし かかるべしとは思ひてもみず(建礼門院右京大夫集二一三番)

朝夕いつもお姿をみていた昔は、このようなことになるとは思ってもみませんでした。

重衡の三位中将の、憂き身になりてみやこにしばしと聞こえしころ、ことにことにむかし親かりし人人の中にも、朝夕慣れてをかしきことを言ひ、また、はかなきことにも人のためは便宜に心しらひありなどして、ありがたかりしを、いかなりける報ひぞと心憂し。見たる人の、御顔は変はらで、目もあてられぬなど言ふが、心憂く悲しさ言ふかたなし。

あさゆふに見慣れすぐししそのむかし かかるべしとは思ひてもみず

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