『平家物語』の原文で語る舞台、お話がもっと分かるともっと楽しめるはず!と思っている方もいらっしゃるでしょう。舞台映像は何度でも見直すことができます。現代語訳をお供に、すこしずつ楽しんでみませんか。
慣れるときっと原文だけで楽しむことができます!
奈良炎上 0:05:24ごろ~
やりすぎだよ!奈良の悪僧
都ではまた「高倉宮(以仁王)が園城寺(三井寺)にお入りになったとき、南都の大衆が味方して、おまけに宮を迎えに行ったこと、これは朝廷への反抗だ。清盛は南都も三井寺も攻めるにちがいない」という噂が聞こえてくるやいなや、奈良(南都)の大衆がいっせいに反発して立ち上がった。
都にはまた、「高倉宮、園城寺へ入御の時、南都の大衆、同心して、あまっさへ御むかへに参る条、これもって朝敵なり。されば南都をも三井寺をも攻めらるべし」といふ程こそありけれ、奈良の大衆おびたたしく蜂起す。
【朝敵】この時の帝は安徳天皇。平清盛は外祖父として朝廷を支配していました。
摂政殿は「思うことがあれば何度でも帝に申し上げるから」とおいいつけになったが、全く聞きいれない。勧学院の別当忠成を使者として奈良に行かせたところ、「奴を乗物から引きずり落とせ。もとどりを切れ」と騒いだので、忠成は青ざめて京に逃げ帰る。次に右衛門佐親雅を奈良に行かせる。これも、「もとどりきれ」と大衆が騒ぎ立てるので、とる物もとりあえず京に逃げ帰る。その時は勧学院の下級役人二人がもとどりを切られてしまった。
摂政殿より、「存知の旨あらば、いくたびも奏聞にこそ及ばめ」と仰せ下されけれども、一切用ゐ奉らず。有官の別当忠成を御使に下されたりければ、「しや乗物よりとってひきおとせ。もとどりきれ」と騒動する間、忠成色をうしなって逃げ上る。次に右衛門佐親雅を下さる。これをも、「もとどりきれ」と大衆ひしめきければ、とる物もとりあへず逃げ上る。その時は勧学院の雑色二人がもとどり切られにけり。
【摂政殿】騒動の中心は興福寺の僧たち。興福寺は、摂関家藤原氏の氏寺です。
【勧学院】藤原氏が一族の子弟のためにつくった学校。
【もとどり】髪を頭の上で束ねた部分。人前で冠を脱がせて、もとどりを切るのは、相手をひどく辱める行為でした。
また南都では大きな毬杖の玉をつくって、これは平相国の頭と名付けて、「打て」「踏め」などといった。「人の噂になりやすい悪口は、災いの元。調子に乗りすぎるのは破滅の元」という。入道相国(清盛)と申すのは、恐れ多くも今の帝の祖父である。それをこのように申す奈良の僧たちは、まったくもって天魔が取りついたかと思われた。
また南都には大きなる毬杖の玉をつくって、これは平相国のかうべとなづけて、「うて」「ふめ」なんどぞ申しける。「言葉のもらしやすきは、わざはひをまねく仲立ちなり。事のつつしまざるは、やぶれをとる道なり」といへり。この入道相国と申すは、かけまくもかたじけなく、当今の外祖にておはします。それをかやうに申しける南都の大衆、およそは天魔の所為とぞ見えたりける。
【毬杖】棒で木の球を打ち合う遊び。
入道相国はこのような事を伝え聞いて、そのままにしておくわけがない。急いで南都の狼藉を鎮めようと思って、備中国住人瀬尾太郎兼康を大和国の検非所(県警本部長)にした。兼康は五百余騎で南都に向かう。
入道相国かやうの事ども伝へ聞き給ひて、いかでかよしと思はるべき。かつがつ南都の狼藉をしづめんとて、備中の国の住人、瀬尾太郎兼康、大和国の検非所に補せらる。兼康、五百余騎で南都へ発向す。
〔清盛は〕「よいか、衆徒が乱暴をはたらいても、おまえたちは決して乱暴するな。武装するな。弓矢は持つな」と言って向かわせたのに、大衆はそのような内情を知らずに、兼康の部下六十人あまりを捕らえて、全員の頸を斬り、猿沢の池の周りに並べて掛けた。
「相構へて衆徒は狼藉をいたすとも、汝等はいたすべからず。物具なせそ。弓箭な帯しそ」とて向けられたりけるに、大衆かかる内儀をば知らず、兼康が余勢六十余人からめとって、一々にみな頸を斬って、猿沢の池のはたにぞ懸け並べたる。
