【滅亡の焔】現代語訳付き鑑賞ガイド 奈良炎上③

『平家物語』を原文で語る舞台、お話がもっと分かるともっと楽しめるはず!と思っている方もいらっしゃるでしょう。舞台映像は何度でも見直すことができます。現代語訳をお供に、すこしずつ楽しんでみませんか。

奈良炎上 

▶0:12:55ごろ~  興福寺・東大寺焼亡のあと

興福寺は淡海公(藤原不比等)の願によって建立された、藤原氏累代の寺である。東金堂におわす仏法最初の釈迦の像、西金堂におわす土の中から現れた観世音、瑠璃をならべた四面の廊、朱丹をまじえた二階の楼、九輪が空にかがやいていた二基の塔が、たちまち煙となるのはじつに悲しいことだ。

興福寺(こうぶくじ)は淡海公の御願(ごぐわん)(とう)()累代(るいたい)の寺なり。東金堂(とうこんだう)におはします仏法最初の釈迦の像、西金堂(さいこんだう)におはします自然(しねん)涌出(ゆじゅつ)観世音(くわんぜおん)、瑠璃をならべし四面(しめん)の廊、(しゅ)(たん)をまじへし二階の(ろう)九輪(くりん)空にかかやきし二()の塔、たちまちに煙となるこそ悲しけれ。

小林裕子『興福寺創建期の研究』(中央公論美術出版 2011)p101 図版

東大寺は常在不滅、実報寂光の生身の御仏になぞらえて、聖武天皇がご自身の手でみがかれた、金銅十六丈の盧遮那仏、烏瑟高く現れて半天の雲にかくれ、白毫がはっきりと拝める、満月のように完全円満のお姿が……御髪は焼け落ちて大地にある。御からだは高熱で溶けて山のよう。八万四千の相があるという仏のお姿は、秋の月のように、早々と五重の雲に隠れ、四十一地の瓔珞は、夜の星のようにむなしく十悪の風にただよう。煙は中空に満ち満ちて、炎は虚空を埋め尽くす。目の前で見ている者は、まともに見つめることができない。(この惨状を)遠くで伝え聞く人は、平静を失った。

東大寺は常在(じやうざい)不滅(ふめつ)実報(じっぽう)寂光(じゃくくわう)生身(しやうじん)御仏(おんほとけ)とおぼしめしなずらへて、(しや)(うむ)皇帝(くわうてい)、手づから身づからみがきたて給ひし、金銅十六(ぢやう)()遮那仏(しゃなぶつ)烏瑟(うしつ)高くあらはれて、半天(はんでん)の雲にかくれ、白毫(びゃくがう)新たに拝まれ給ひし、満月(まんぐわつ)(そん)(よう)も、御髪(みくし)は焼け落ちて大地(だいぢ)にあり。御身(ごしん)はわきあひて山のごとし。八万四千の相好(さうがう)は、秋の月はやく五重(ごぢゅう)の雲におぼれ、四十一()瓔珞(やうらく)は、夜の星むなしく 十悪の風にただよふ。煙は中天(ちゅうてん)に満ち満ち、ほのほは虚空(こくう)にひまもなし。まのあたりに見奉る者、 さらにまなこをあてず。はるかに伝へ聞く人は、(きも)たましひを(うしな)へり。

「満月の尊容」までが、焼け落ちる前のすばらしかった大仏の様子。「満月」にたとえるのは欠けるところの無い、つまり完全無欠のすばらしさを表現しています。

法相、三論の法門聖教は一巻残らず燃えた。わが国は言うに及ばず、天竺震旦にも、これ程の 仏法の滅亡があるとは思えない。優塡大王が紫磨金をみがき、毘須羯磨が赤栴檀を刻んだのも、わずかに等身の御仏である。ましてやこの東大寺の大仏は、南閻浮提のうちには唯一無双の御仏、永遠に朽ち損なわれることはないと思っていたのに、いま毒縁の塵に交わり、長い悲しみをお残しになった

法相(ほつさう)、三論の法門聖教(しやうげう)すべて一巻残らず。我朝はいふに及ばず、天竺(しん)(だん)にもこれ程の法滅(ほふめつ)あるべしともおぼえず。優塡(うでん)大王の紫磨(しま)(ごん)をみがき、毘須(びしゅ)羯磨(かっま)(しやく)栴檀(せんだん)をきざんじも、わづかに 等身の御仏(おんほとけ)なり。(いは)んやこれは、南閻浮提(なんえんぶだい)のうちには唯一(ゆいいち)無双(ぶさう)御仏(おんほとけ)、ながく朽損(きうそん)()あるべしともおぼえざりしに、いま(どく)(えん)の塵にまじはって、久しく悲しみを残し給へり。  

梵天、帝釈、四天王、竜神、八部衆、冥官冥衆も驚き騒いでいると思われる。法相宗を擁護する春日の大明神も、どのようなことをお思いになったのか、春日野の露も色が変わり、三笠山の嵐の音も怨んでいるように聞こえた。

梵尺(ぼんじゃく)()(わう)、竜神八部(はちぶ)冥官(みやうくわん)(みやう)(しゅ)も驚きさわぎ給ふらんとぞ見えし。法相(ほつさう)擁護(おうご)の春日の大明神、いかなる事をかおぼしけん、されば春日野の露も色かはり、三笠山の嵐の音、怨むる(さま)にぞ聞こえける。

小林裕子『興福寺創建期の研究』(中央公論美術出版 2011)p79 図版

炎の中で焼け死んだ人数を記すと、大仏殿の二階の上には1700人あまり、山階寺には800人あまり、ある御堂には500人あまり、ある御堂には300人あまり、詳細に記すと、3500人あまりである。戦場で討たれた大衆1000人あまりのうち、少しは般若寺の門の前に頸を斬って掛け、少しは頸を持たせて都へ帰った。

ほのほの中にて焼け死ぬる人数(にんじゅ)(しる)いたりければ、大仏殿の二階の上には一千七百余人、(やま)階寺(しなでら)には八百余人、或る御堂には五百余人、或る御堂には三百余人、つぶさに(しる)いたりければ、三千五百余人なり。戦場にして討たるる大衆千余人、少々は般若寺の(もん)の前にきりかけ、少々は持たせて都へのぼり給ふ。

(12月)29日、頭中将重衡は南都を滅ぼして帰京した。入道相国ただ一人、遺恨が晴れて喜んだ。中宮、一院、上皇、摂政殿以下の人々は、「悪僧を滅ぼすのはしかたないとしても、伽藍を破滅させるなどあってはならないことだ」と嘆き合った。

二十九日頭中将、南都ほろぼして北京へ帰り入らる。入道相国ばかりぞいきどほりはれてよろこばれける。中宮、一院、上皇、摂政殿以下の人々は、「悪僧をこそ滅ぼすとも、伽藍を破滅すべしや」とぞ御嘆きありける。

衆徒の頸は、はじめは大路を渡して、獄門の木に懸けるといわれていたが、東大寺、興福寺が滅んでしまった衝撃で、なんの指図もない。あちこちの溝や堀に捨ておいた。

衆徒の頸ども、もとは大路を渡して、獄門の木に懸けらるべしと聞こえしかども、東大寺、興福寺のほろびぬるあさましさに、沙汰にも及ばず。あそこここの溝や堀にぞ捨ておきける。

聖武天皇御自筆の書には、「わが寺が興福すれば天下も興福し、わが寺が衰微すれば天下も きっと衰微するだろう」とお書きになっている。天下が衰微する事は疑いなしと思われた。

聖武皇帝、宸筆の御記文には、「わが寺興福せば天下も興福し、わが寺衰微せば天下も衰微すべし」とあそばされたり。されば天下の衰微せん事も疑ひなしとぞ見えたりける。

驚きあきれることばかりの年も暮れ、治承も五年になった。

あさましかりつる年も暮れ、治承も五年になりにけり。

現在の東大寺大仏殿(奈良県奈良市)

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