実盛は義仲の恩人?

かんた

平家物語の伝本のひとつ『源平盛衰記』には、実盛が義仲を木曽に行かせたと書かれています。にゃんこ先生訳で読んでみましょう。

信濃国安曇郡に木曽という山里がある。そこの住人の木曾冠者義仲というのは、故六条判官為義の孫、帯刀先生義賢の二男である。義仲がここに居住した事情だが、父義賢は、武蔵国多胡郡の住人秩父二郎大夫重隆の養子である。義賢が武蔵国比企郡へ進出したのを、去る久寿二年二月に、左馬頭義朝の嫡男悪源太義平が、相模国大蔵の口で討ち取ってしまった。義賢は義平にとっては叔父なので、木曾と悪源太とは従兄弟である。

父が討たれた時、木曾は二歳、名を駒王丸といった。悪源太は義賢を討って京に(のぼ)ったが、畠山庄司重能に言い置いた、「駒王を尋ね出して必ず殺せ。生き残っては禍根が残ってよくない」。重能は、「たしかに承りました」とは言ったけれど、どうして二歳の子に刀を振うことができようか、かわいそうだと思って、ちょうどその時、斉藤別当実盛が武蔵国に下って来ていたのをうれしく思って、駒王丸を母に抱かせて、「この子を育ててください」と言いやったところ、実盛は引き受けてから七日間思案して、『東国というところは皆源氏の家人だ。中途半端にここで養育して、けっきょく討たれてしまうことになれば頼られたかいがない。討たせまいと気を配るのも面倒だ。どうあっても難しい』と思って、「木曽は山深い所だ、中三権頭は人望を集めている者だから、そこで隠れて育てて、成人したら主として頼りにしなさい」と言って、母に抱かせて信濃国に送り届けさせた。斉藤別当は情けがある。

母は、(ふところ)に抱えて泣く泣く信濃国に逃げて、木曾中三権頭にお会いして、子を懐から出して言うには、「私は女の身です。この子をしっかり育て上げられるとは思えません。深くあなたを頼りにいたします。育て上げて、才能があれば子にし、百に一つでも名をあげることがあればあなたの手柄となさいませ。見込みがなければ従者として使ってください」と言う。兼遠は、哀れと思い、また、この人はまさしく八幡太郎義家殿の四代の孫だ。「世の中は淵は瀬となる(昨日の深みが今日は浅瀬に変わるように、世の中はすぐに移り変わるものだ)」というたとえがある。今でこそ孤児(みなしご)でいらっしゃったとしても、わからないぞ、世の末には日本国の武家の主となられるかもしれないではないか。なんとしても育て上げて北陸道の大将軍にならせてさしあげて、自分も名をあげようと思う気持ちがあったので、頼もしく引き受けて、木曽の山下という所に隠しておいて、二十年あまりの間育んだ。

『源平盛衰記』巻第二十六 木曽謀叛(冒頭)の原文はこちら

にゃんこ先生

中原兼遠を「木曾中三」というのは、木曽の中原氏の三男だったから、「権頭」は信濃国の権守(ごんのかみ)(権頭)だったからです。権守は守(国司)を補佐する役割だったみたい。副知事みたいなもの?

かんた

中原兼遠の子の樋口次郎兼光と今井四郎兼平は、最期まで義仲をささえ、ともに戦いました。『源平盛衰記』は、巴について「今井、樋口と兄妹にて、怖ろしき者にて候ふ」(巻三十五 巴関東下向)と言います。

義仲の父、義賢が討たれた大蔵合戦についてはこちらをごらんください

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