源氏の一族は仲が悪い?大蔵合戦

かんた

義仲はどうして木曾で育ったの?

『平家物語』巻六 (めぐらし)(ぶみ) には次のように書かれています。

そのころ信濃国に木曾冠者義仲という源氏がいるという噂が流れてきた。故六条判官為義の次男、故帯刀先生義賢の子である。父の義賢は久寿二年(1155)八月十六日、鎌倉の悪源太義平のために殺害された。その時義仲は二歳だったので、母が泣く泣く抱きかかえて、国境をこえて信濃国に行って、木曾中三兼遠のもとに行き、「この子をどうか一人前の人間に育ててください」と言ったので、兼遠は請け合って、労を惜しまず養育した。次第に成長するにつれて、力は誰よりも強く、心も比べるものがいないほど勇ましかった。

そのころ信濃(しなのの)(くに)に、木曾(きその)冠者(かんじゃ)(よし)(なか)といふ源氏ありときこえけり。()六条(ろくじょう)判官(のほうがん)為義(ためよし)が次男、故帯刀(こたてわき)先生(せんじょう)(よし)(かた)が子なり。父義賢は、久寿二年八月十六日、鎌倉の悪源(あくげん)()(よし)(ひら)(ため)(ちゅう)せらる。その時義仲二歳なりしを、母泣く泣くかかヘて、信濃へこえ、木曾中三兼(きそのちゅうぞうかね)(とお)がもとにゆき、「これいかにもしてそだてて人になしてみせ給へ」といひければ、兼違うけとって、かひがひしう廿余年養育(よういく)す。やうやう長大するままに、力も世にすぐれて強く、心もならびなく(かう)なりけり。(覚一本・小学館新編古典文学全集)

にゃんこ先生

義仲のお父さんの義賢が、地元の有力者の秩父重隆と手を組んで勢力を広げたので、義朝と義平が警戒したんです。義賢を殺害したことで、義平は鎌倉悪源太と呼ばれました

源義賢 〈略〉十二世紀半ばに上野国多胡郡を基地として活躍し、武蔵北西部の豪族秩父重隆の養子となり北武蔵にも勢力を伸ばしていた。しかし鎌倉を根拠地として南関東の武士団の組織を進めていた兄義朝の勢力と衝突、久寿二年(一一五五)八月十六日に武蔵国比企郡の大蔵館(埼玉県比企郡嵐山町大蔵)で、義朝の長男義平によって討たれる。〈略〉(国史大辞典)

でも義朝と義平は1159年におきた平治の乱で敗者となり殺されます。

かんた

源頼朝は弟の義経をやっつけたねえ。源氏は兄弟の仲が悪いの?

斎藤実盛は義仲の命の恩人という情報についてはこちらをごらんください。

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